京都府立大江高等学校の学力向上フロンティア計画「OE-Study」のオフィシャルサイト。

◆ 歴史のひとこま ◆ ~7月7日~

 今回とりあげる日は「7月7日」です。

1937年の7月7日、北京郊外の廬溝橋をはさんで中国軍とにらみ合っていた日本軍の部隊に、数発の銃弾が撃ち込まれました。翌朝日本軍が反撃、戦闘が始まります。これが廬溝橋事件です。この後中国側は宣戦布告をしますが、日本側はアメリカなどからの軍需品の輸入が断たれるのを恐れて「支那事変」と命名、たんなる軍事紛争の体裁を装います。この出来事が、8年間にわたる日中戦争の始まりでした。
この後、日本は中国との戦争を継続しながら、1941年12月にはハワイの真珠湾を攻撃、太平洋戦争に突入していきます。しかし、1942年6月のミッドウェー海戦での敗退をきっかけに日本の敗色が強まり、1943年2月にはガダルカナル島から撤退。1943年9月、大本営(陸海軍をまとめて指揮するところ)はマリアナ諸島を中心とする「絶対防衛圏」を定めます。マリアナ諸島の中心サイパン島は、爆撃機が給油なしで日本まで往復できる距離にあったからです。
そのサイパン島も、1944年6月15日からアメリカからの攻撃を受け、6月24日、大本営は奪回不可能としてサイパン島の放棄を決め、最後まで抗戦し玉砕するよう命じます。そして7月7日、日本軍が最後の総攻撃を行い、組織的な戦闘は終わりました。4万を超える守備隊が戦死し、当時日本の統治下におかれていたチャモロ人やカナカ人、本土や沖縄から移住していた2万余の日本人、2000余の朝鮮人など、多数の民間人が戦闘に巻き込まれました。
後から振り返って「どうしてこんなことになってしまったのだろう」と思うような出来事や失敗が、誰にでもあるでしょう。あるいは、その出来事が進行している途中で間違いに気付きながら、何もできずに間違った方向へ流されていくこともあるでしょう。太平洋戦争を始めた当時の日本がそうでした。今を生きる私たちが1937年からの歴史を振り返ると、「なぜ、科学的、客観的に考えれば勝ち目のない戦争に、日本は突入していったのだろう」「なぜ、誰もそれを止められなかったのだろう」と思います。しかし、当時の人はそれに気付かなかった、止められなかったのです。
大切なのは、失敗しないことではなく、過去の失敗から教訓を得ること、教訓を得ようとする姿勢を身につけること。私たちが歴史を学ぶ意味はここにあります。一度も失敗しない人間などいません。失敗の積み重ねで人間は成長していくのですから。問題は、その失敗を反省材料として活かすかどうか、なのです。7月7日、牽牛と織姫のロマンチックな愛に想いをはせるだけでなく、日々の自分の生活態度が、成長しようとしている人間にふさわしいかどうか、振り返る日にしてみてください。


京都府立大江高等学校 
教  諭 山 田 義 治