京都府立大江高等学校の学力向上フロンティア計画「OE-Study」のオフィシャルサイト。

歴史のひとこま

 2月は、日本近現代史において大きな事件がいくつも起こった月です。
 1932年(昭和7年)2月22日、「肉弾三勇士」の自爆が国内に伝えられました。この前年に起こった満州事変以降、日本は中国へ侵出し始めますが、中国軍の激しい抵抗で苦戦します。そんな時にこの自爆事件が起こります。爆弾を抱えた3人の兵士が鉄条網に突入し、そのまま爆死したのです。日本軍はこの行為を、日本軍の突撃路を切り開くための覚悟の自爆と発表し、3人は「肉弾三勇士」と称えられました。しかし、この3人は途中で倒れたために間に合わなかっただけ、という説もあります。3人と同時に突入した他の3人は、爆破に成功して無事帰還しており、「肉弾三勇士」の自爆は、戦意高揚のために作られた美談であったようです。                                     
 1933年(昭和8年)2月20日、『蟹工船』を書いたプロレタリア作家の小林多喜二が築地警察署で虐殺されました。満州事変以降軍部が台頭し、共産主義、社会主義への弾圧が強まり、治安維持法によって自由が制限される時代でした。 
 1933年(昭和8年)2月24日、日本の満州侵略について調査したリットン調査団の報告を、国際連盟は採択しました。満州事変は国際社会から厳しい批判を浴び、日本代表の松岡洋右は「good by」と言い残して国際連盟の議場から退場します。この後、日本は正式に国際連盟を脱退し、国際社会に背を向けつつ、中国侵略を拡大していったのです。
 1936年(昭和11年)2月26日、2・26事件が起こりました。これは、陸軍の青年将校らが、軍部独裁政権樹立のために起こしたクーデターでした。3人の大物政治家が殺され、永田町一帯が占拠されました。このクーデターは結局失敗に終わりますが、軍部はこの後、事件が人々に与えた恐怖心をたくみに利用しながら、政治に対する軍部の影響力を強めていきます。
 ここで伝えたいのは、歴史的事実をどう解釈するか、ではありません。「『伝え方』にはいろいろある」ということ、そして「みんなには正しい『伝え方』をしてほしい」ということを伝えたいのです。
 人をだますために美談に仕立てること、人が伝える権利そのものを認めず奪ってしまうこと、他人の意見を受け入れず自分の主張だけを通そうとすること、暴力で人を従えようとすること、これらは全て間違った『伝え方』です。
 他人を誹謗・中傷するメールを送ったり、人の靴の中にゴミを入れたり、黒板や壁に他人の悪口を書いたり・・・これらも全て間違った『伝え方』です。
 君たちには、アサーティブな(攻撃的でも受け身的でもない、自分も相手も大切にする)伝え方を知って欲しい。正しいコミュニケーションの方法を、高校生の間にぜひ身につけてほしい。そのために先生たちは、これからも口うるさく注意するでしょう。聴いてください。聴くことから正しいコミュニケーションは始まるのですから。

参考文献:『いのちと平和を学ぶ今日は何の日366日』

京都府立大江高等学校 
教  諭 山 田 義 治

 16世紀は、「ルネサンス」と呼ばれる芸術革新運動が起こった時代です。この時代には、キリスト教の権威からの解放を求めて、人物中心主義の芸術が復興しました。また、ルネサンス期は同時に科学精神が芽ばえ始めた時代でもありました。ポーランドのコペルニクスが地動説を唱えたのはこの頃です。ミケランジェロ・ブオナローティ(1475年3月6日~1564年2月18日)は、この時代に生きた彫刻家で画家、建築家で詩人でもあった人。「最後の審判」というシスティナ礼拝堂の絵を描き、「ダヴィデ像」を造った人物です。
 17世紀は「科学革命」の時代と呼ばれ、自然界の研究に大きな進歩があった時代です。そして、ルネサンス期に活躍したミケランジェロが死んだ年にガリレオ・ガリレイ(1564年2月15日~1642年1月8日)が生まれ、この時代を代表する科学者となります。彼は地動説を立証し、天文学の父と称されました。そして、このガリレオ・ガリレイが死んだ年に生まれたのが、アイザック・ニュートン(1642年12月25日~1727年3月20日)。万有引力の法則を発見し、物理学に大きな業績を残しました。
 こう並べると、歴史の流れが見えるのではないでしょうか。宗教的な権威から解放され、科学的な真実に目覚めつつある時代(ミケランジェロ) → 科学革命時代(ガリレオ・ガリレイ) → 科学革命時代の大成(ニュートン)という流れが。そして、それぞれの歴史を、偉大な人物がリレーしました。
 今、私たちが「常識」と思っていることも、先人の多大な努力の結果、「常識」となったことが多いのです。先人からの「努力」「その結果得られた知識」のリレーで、私たちの日常生活は成り立っていると言っても過言ではありません。折しも今日はガリレオ・ガリレイが死んだ日。年の初めにあたって、偉大な先人達を、そして彼らの努力を振り返ってみましょう。また、これら「知識」をよりよく吸収することが出来るのが「読書」ですから、高校生の間にできるだけたくさん本を読みましょう。本は先人の知識の集大成です。

 

京都府立大江高等学校 
教  諭 山 田 義 治

 1967年12月3日は、医学界で歴史的な出来事があった日です。
 この日、世界で初めての心臓移植手術が行われました。場所は南アフリカ共和国。手術を行ったのはクリスチャン・バーナード博士。ところが、この手術が黒人から白人への臓器移植手術だったことから、バーナード博士はこの後、「人種差別主義者だ」とのレッテルを貼られてしまいます。アパルトヘイト(人種隔離政策)の下、黒人への差別が厳しかった時代のことです。「黒人の心臓だから死の判定もいい加減に摘出したのだ」「逆の移植だったらやっただろうか」という非難の中、博士は次第にマスコミから遠ざかるようになります。
 1985年、西ケープ大学の研究者が白人の千家族を200年近くさかのぼって調べ、「南アフリカの白人は混血を重ねており、純粋な白人は少ない」との調査結果を発表し、「白人至上を唱えるアパルトヘイトは意味がない」と結論づけました。さらに「混血が多い家系」として、現存する白人家族の姓を例示しました。その中に、当時の右派保守党の党首「トリュニヒト」の姓が含まれていたため、この党首が名誉毀損で訴訟を起こす騒ぎにまで発展しました。
 その時登場したのがバーナード博士でした。博士は「混血か純血かは遺伝子を調べればすぐ分かる」と述べ、トリュニヒト党首に「血液検査をしてあげましょう」と呼びかけたのです。事態はたちまち沈静化しました。博士は「私にも黒人の血が混じっていると思う。そんなことは大した問題ではないではないか。その人間がどういう人間であるかが大切なはずだ」と語っています。
 バーナード博士は、果たして差別主義者だったのでしょうか。私はそうは思いません。しかしインターネットで「バーナード博士」を検索してみると、そのほとんどがおそらく同じ情報源に頼っているのでしょう、どのサイトでも彼がひどい差別主義者だったように書かれています。
 現代社会においては、多くの情報が簡単に得られます。その中から正しいものを見抜く力が、これからますます重要になるでしょう。そして、間違った情報を「間違いだ」と見抜くために大切なのは、「真実はどうなのか」を知っていること、また知ろうとする姿勢を持ち続けること。テストでよい点をとることだけが勉強の目的ではない。「真実を知りたい」という思いがあってこそ、「勉強」は本当に意味のあるものになるのです。
(参考文献:朝日新聞 2001年9月)


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教  諭 山 田 義 治

戦後30年以上が経った1977年9月27日、厚木基地を発進した米軍のファントム偵察機が火災を起こし、午後1時20分ごろ横浜市緑区(現青葉区)に墜落しました。一帯には機体と大量のジェット燃料が飛散し、付近の公園と民家は一瞬にして火の海となりました。事件発生と同時に自衛隊は救難ヘリコプターを出動させ、10分後には現地の上空に到着しました。しかし、救難ヘリは大やけどを負って救助を求めている被災者を助けることなく、パラシュートで脱出した無傷の米軍パイロット2人を乗せて厚木基地に帰ってしまいました。2人の幼児を含む9人の重軽傷者は、付近で宅地造成の仕事をしていた人たちによって救出されました。病院に収容された林裕一郎君(当時3歳)と弟の康弘君(当時1歳)は、全身の大やけどで間もなく幼い命を閉じました。母親の和枝さん(当時26歳)は、全身の8割におよぶやけどを負い、大勢の人の皮膚の提供を受けて皮膚の移植手術を行いましたが、1982年1月に亡くなりました。
この出来事は、「パパ、ママ、バイバイ」という絵本や映画にもなったので、知っている人もいると思います。この出来事を知って「かわいそう」と素直に思ってほしい。そして、高校生であればその先まで考えてほしい。「なぜ救難ヘリは米軍パイロットだけを助けたのだろう」「なぜ米軍の偵察機が横浜に墜落したのだろう」「そもそも、なぜ厚木に米軍の基地があるのだろう」というふうに。
結局解決にはいたりませんでしたが、鳩山首相が普天間基地問題に取り組んだ時、似たような疑問を持ったのではないでしょうか。「沖縄になぜ米軍基地があるのだろう」「基地周辺で犯罪を犯した米軍兵士が、なぜ警察に逮捕されないのだろう」「そもそも日本に米軍基地が必要なのだろうか」
 「パパ、ママ、バイバイ」を見て、単に「かわいそう」だけで終わらせてはいけません。その奥にある真実の部分を、もっと深く知ろうとする姿勢が大切なのです。その姿勢を社会に出るまでに身につけて欲しい。その姿勢を、今、身につけなければ、自分の望んでいない方向に社会が進んでいても気付かないでしょう。知らぬ間に、自分が望んでいない社会で生きていかなければならない状況になったり、自分が加害者になっていることもありえます。「周りに合わせていればよい、自分は知る必要がない」という考え方は危険なのです。どうか「もっと深く、真実を知ろう」という姿勢を身につけてください。

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教  諭 山 田 義 治

 今回とりあげる日は「7月7日」です。

1937年の7月7日、北京郊外の廬溝橋をはさんで中国軍とにらみ合っていた日本軍の部隊に、数発の銃弾が撃ち込まれました。翌朝日本軍が反撃、戦闘が始まります。これが廬溝橋事件です。この後中国側は宣戦布告をしますが、日本側はアメリカなどからの軍需品の輸入が断たれるのを恐れて「支那事変」と命名、たんなる軍事紛争の体裁を装います。この出来事が、8年間にわたる日中戦争の始まりでした。
この後、日本は中国との戦争を継続しながら、1941年12月にはハワイの真珠湾を攻撃、太平洋戦争に突入していきます。しかし、1942年6月のミッドウェー海戦での敗退をきっかけに日本の敗色が強まり、1943年2月にはガダルカナル島から撤退。1943年9月、大本営(陸海軍をまとめて指揮するところ)はマリアナ諸島を中心とする「絶対防衛圏」を定めます。マリアナ諸島の中心サイパン島は、爆撃機が給油なしで日本まで往復できる距離にあったからです。
そのサイパン島も、1944年6月15日からアメリカからの攻撃を受け、6月24日、大本営は奪回不可能としてサイパン島の放棄を決め、最後まで抗戦し玉砕するよう命じます。そして7月7日、日本軍が最後の総攻撃を行い、組織的な戦闘は終わりました。4万を超える守備隊が戦死し、当時日本の統治下におかれていたチャモロ人やカナカ人、本土や沖縄から移住していた2万余の日本人、2000余の朝鮮人など、多数の民間人が戦闘に巻き込まれました。
後から振り返って「どうしてこんなことになってしまったのだろう」と思うような出来事や失敗が、誰にでもあるでしょう。あるいは、その出来事が進行している途中で間違いに気付きながら、何もできずに間違った方向へ流されていくこともあるでしょう。太平洋戦争を始めた当時の日本がそうでした。今を生きる私たちが1937年からの歴史を振り返ると、「なぜ、科学的、客観的に考えれば勝ち目のない戦争に、日本は突入していったのだろう」「なぜ、誰もそれを止められなかったのだろう」と思います。しかし、当時の人はそれに気付かなかった、止められなかったのです。
大切なのは、失敗しないことではなく、過去の失敗から教訓を得ること、教訓を得ようとする姿勢を身につけること。私たちが歴史を学ぶ意味はここにあります。一度も失敗しない人間などいません。失敗の積み重ねで人間は成長していくのですから。問題は、その失敗を反省材料として活かすかどうか、なのです。7月7日、牽牛と織姫のロマンチックな愛に想いをはせるだけでなく、日々の自分の生活態度が、成長しようとしている人間にふさわしいかどうか、振り返る日にしてみてください。


京都府立大江高等学校 
教  諭 山 田 義 治 

 インド神話に次のような話があります。
 この世界の人間第1号はヤマという男でした。ヤマにはヤミーという名の双生児の妹がいました。つまりこの2人は、旧約聖書のアダムとイブに相当するわけです。ヤマとヤミーは結婚し幸せに暮らしていましたが、やがてヤマが死にます。妹であり妻であるヤミーはひどく悲しみました。神々はヤミーに、早くマヤを忘れるように諫めましたが、ヤミーはいつもこう言いました。「ヤマはきょう死んだ」

 というのは、その時はまだ夜がなかったからです。ヤマを忘れることができないヤミーをかわいそうに思った神々は、ヤミーのために夜を創ってやりました。夜ができたので翌日ができました。翌日ができるとヤマの死は昨日になり、ヤミーは「きのう、ヤマが死んだ」と言うようになりました。そして、その昨日が一昨日になり、一週間前になり、一月まえになるにつれて、ヤミーはヤマを忘れることができました。私たちの悲しみを、時間が癒してくれることを教えた説話です。

 後日談。死者第1号となったヤマは天界にたどり着き、そこに緑の楽園を発見。領土宣言をして死者の国、楽園の王となりました。しかし、しばらくするとその楽園にまで悪人がやって来て、満員になりました。そこでヤマは、地下に牢獄をつくってそちらに悪人を収容しました。その地下の牢獄が「地獄」です。そしていつのまにか、マヤは地獄の王にされてしまいました。ちなみに「ヤマ」に漢字をあてると「閻魔」になります。

 6月21日は夏至、一年中で昼が最も長くなる日です。この日を境にして、毎日毎日、少しずつ夜が長くなっていきます。夜というと「暗い、冷たい、怖い」というマイナスイメージを持つ人が多いかもしれませんが、夜があるおかげで日が流れ、多くの悲しみを癒すことができます。また、植物の世界では、開花するために日の光でなく夜の闇を必要とする花も多くあります。華々しい成果をあげるには、その前につらく苦しい時期が必要だということです。
みなさんにも同様のことが言えます。自分にとって一見マイナスに見えるものでも、実はプラスの要素や力を持っていたり、後々自分の能力を高めてくれる力となるものがあります。そして、卒業後に大きな花を咲かせるには様々な試練に耐える苦しい期間が必要で、それが今なのです。まずは期末考査に向けて、しっかり勉強しましょう。


京都府立大江高等学校 
教  諭 山 田 義 治

「・・・後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目になります。・・・」
1985年の5月8日、西ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ヴァイッゼッカーは、敗戦40周年にあたって連邦議会で演説を行いました。これがその有名な一節です。

40年前のこの日は、ドイツが文字通り崩壊した日でした。死亡したドイツ人720万人、街は瓦礫の山と化し、家や故郷を失った人々が2500万人、そしてソ連では2000万人、ポーランドでは450万人が殺され、420万から600万ものユダヤ人が殺された(うちアウシュビッツで殺されたのが150万人)ともいわれています。このような悲劇をふまえて、その愚かさや、ドイツ人を含む人類の犯した重大犯罪を二度とくり返してはならないと決意をこめて訴えたのが、この演説でした。
このヴァイッゼッカー演説は、ドイツ国内だけでなく世界各地で大きな反響を呼び起こし、人々に深い感動を与えました。その理由は、彼が国家元首という立場にありながら、自国がかつて犯した罪責を1つ1つ具体的にあげて反省し、情熱こめて率直に語りかけたその姿に、人々が共感を覚えたからでしょう。

 「誠実にまさる知恵なし」ドイツの詩人シラーの言葉です。またイギリスの思想家カーライルは、『英雄と英雄崇拝』の中で次のように言っています。「失敗の最たるものは、何ひとつ失敗を自覚しないことである」
同じ人類の失敗を自分のものとして自覚し、それを認めるヴァイッゼッカーの誠実な言葉からは、人類の未来を考え、同じ失敗をくり返さないために歴史から学ぼうとする姿勢が読み取れます。そして「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目になる」という言葉には、彼の考える「歴史を学ぶ意味」がこめられています。

過ちを過ちとして認めることから人間の進歩が始まります。「誠実さ」と「失敗を自覚し、そこから学ぶ姿勢」を大切に、学校生活を送ってください。


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教  諭 山 田 義 治

 旧ソ連、モスクワの西方約400kmの所に「カチンの森」とよばれる森があります。1943年、ここに4000人以上のポーランド軍将校の遺体が埋められているのを、ドイツ軍が発見しました。遺体は、正規の軍服を着たまま後ろ手に縛られ、首を撃ちぬかれていたことから、ドイツはソ連が彼らを虐殺したと非難しました。一方ソ連は、侵略してきたドイツ軍によって戦争捕虜のポーランド人が捕らえられ、虐殺されたと主張しました。1945年に第二次世界大戦が終結し、ドイツは敗戦国となり、ポーランドは共産化してソ連の支配下に組み込まれました。そのためポーランドは、この事件の真相究明をソ連に言い出すことができず、また西ドイツもナチス時代を全否定する立場からソ連の主張への反論を避けたため、この事件は歴史上のタブーとなっていました。

 1990年の4月13日、ポーランドのヤルゼルスキ大統領がモスクワでソ連のゴルバチョフ大統領と会談し、ソ連側は初めて公式に事実を認め、謝罪しました。1939年にドイツ軍がポーランドに侵攻、同時にソ連がポーランド東部を占領した際、捕虜となった将校がスターリン(事件当時のソ連の指導者)の命令によって、1940年5月にカチンの森で殺された、これが真実でした。事件から50年たっての謝罪でした。

 『論語』によると、孔子はこのように言っています。「過ちて改めざる、これを過ちと謂う」「過ちては則ち改むるに憚るなかれ」わかりやすく内容を言いかえるとこうです。「間違いに気付き、間違いだと知りながらそれを認めず直そうとしない。このような姿勢こそが間違いである。そして間違いに気付いたなら、遠慮せずそれを直そう。」また、中国古典の『易経』には「君子は豹変す」とあります。「豹の毛皮の文様が目立っているように、君子(立派な人)は過ちを犯してもすぐにいさぎよくそれを改める」という意味です。会談におけるゴルバチョフ大統領の態度は、まさに君子であったといえるでしょう。様々な政治的要因から、謝罪までに50年を要しましたが・・・。

ゴルバチョフ大統領はこの後、米ソの冷戦を終結させた功績からノーベル平和賞を受賞しました。彼が受賞したのは、その功績も理由の一つでしょうが、むしろ過ちを認め、それを正そうとする姿勢が評価されたからではないでしょうか。誰だって過ちを犯すことはあります。完璧な人間などいないのですから、それは仕方のないことです。大切なのは、その過ちを認めること、そしてそれを改めること。個人的な人間関係や、国と国との関係がこじれた時も同様です。
みなさん、覚えておいてください。過ちを過ちとして認めることから人間の進歩が始まるのです。


京都府立大江高等学校 
教  諭 山 田 義 治 

 4月12日は「世界宇宙飛行の日」です。1961年のこの日、ソ連(今のロシア)の有人宇宙船ウォストーク1号が打ち上げに成功。1時間48分かけて地球を1周して帰還し、世界初の有人宇宙飛行となりました。乗り込んでいたのは、27歳のユーリ・ガガーリン。彼が帰還後の記者会見で語った「地球は青かった」の言葉は有名です。

 人類が始めて空を飛んだのは、1903年。ライト兄弟によるこの初飛行は、わずか59秒、260mでした。その初飛行から60年も経たないうちに、人類は空だけでなく宇宙にまで行動範囲を広げました。そう考えれば、人類の進歩、科学技術の発展にはめざましいものがあります。この人類の華々しい進歩を象徴し、人類の叡智を讃えるのが「世界宇宙飛行の日」。こうとらえることができるでしょう。

 ところで、無人の人工衛星を初めて打ち上げたのもソ連でした。1957年10月4日、ソ連はスプートニク1号の打ち上げに成功し、アメリカは「スプートニク・ショック」といわれる衝撃を受けました。宇宙空間にまで人工衛星を打ち上げられるロケットを持つということは、大陸を越えてミサイルを打ち込めることを意味するからです。これに危機感を感じたアメリカは、ますます核兵器の開発に力を入れ、米ソの核開発競争が激化していきます。「宇宙へ行く」という人類の夢、その先に広がるであろう華々しい未来と可能性、科学技術の発展や人類の叡智を讃えるこの宇宙開発計画は、軍事計画と切り離せないものだったのです。そもそもライト兄弟の初飛行も、兵器としての利用価値があるとにらんだ軍部が、兄弟に資金的援助をしたことで実現可能となったものでした。

 ここで覚えておいてほしいのは「どんな出来事も、ある一面だけを見ていては真実を知ることができない」ということです。2年生ではみんな世界史を学習し、歴史上のさまざまな出来事を学びますが、どんな事象にも良い面、悪い面、良いとも悪いとも判断できない面がありますし、そのとらえ方は立場によっても違います。ギリシャの哲学者プロタゴラスは「どんな問題にも両面がある」と言っています。「一つの事実に対していろいろな見方ができる。客観的事実は一つでも、真実を一面的に語ることはできない。自分のとらえ方だけが正しいという思い込みは危険である。」このことを頭において、今後の学校生活を送ってください。世界史の授業ではもちろんのこと、他人とのコミュニケーションにおいて、また人間関係を構築する際にも、このことは当てはまるでしょう。みなさんがより深く学び、良好な人間関係を築くことができるよう期待しています。


京都府立大江高等学校 
教  諭 山 田 義 治